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社会保障としての文化拠点

  • 2019年6月13日
  • 2019年6月26日
  • 美術

「日本人ほど近い存在のものを過小評価する民族はいないんですよ。目の前に素晴らしい宝の宝石があっても気づかない。それなのに、外国から入ってくると途端に価値があるように思ってしまう」。この言葉は、地元のコメを海外に売り込み、特産品に押し上げた石川県羽咋市役所の職員の言葉だ(読売新聞2013年5月17日)。農産物だけでなく、文化や芸術についてもいえる至言ではなかろうか。海外に認められたもの、東京から持ってきたものには飛びつくのに、地域の文化をしっかり受け止めようとしない。いささか奇妙なタイトルから、この文章をスタートさせたのは、画廊をはじめとする地域の文化拠点や作家、個性を重視して、地域社会のあるべき姿を考えてほしいとの希望を込めたかったからである。
もちろん、文化がそのまま社会保障だと言いたいわけではない。ただ、例えば、画廊でも劇場でも映画館でも、芸術を享受するために地域にある拠点が芸術の欠乏と文化的生活からの疎外のリスクを防御し、その価値を守るのだと考えるならば、それは社会が保障すべき場ではないだろうか。
私自身が少しずつ画廊に通い始めたのは、東京で大学に通っていた一九八〇年代半ばなので、たかだか二十数年にすぎない。当初は、ときどき新聞文化欄の美術評を頼りに銀座、京橋辺りに足を運んだ程度。その後、本格的に名古屋周辺の画廊を回るようになったのは、就職後に勤務が名古屋になった九〇年代半ばからである。
特に新聞社の文化部に籍を置いたころは画廊を回りまくった。名古屋周辺ではタカギ、セラー、アキライケダ、HAM、ケンジタキ、MAT、ユマニテ、白土舎、コオジオグラ、コヅカ、フィナルテ、アパ、ナイトウ、伽藍洞、名古屋画廊、岡崎のノブギャラリーや豊橋のサンセリテなど。そのほか現代美術以外の貸画廊なども含め、ほぼ全ての画廊を訪ね、大概の展覧会を見た。オープニングには行ける限り顔を出し、走るようにして画廊を見て回った。思い返すと「うたかたの日々」である。
画廊とは何か。作家が制作した作品を初めて世に問い、コレクターが買う。同時にそれにとどまらず、批評家、学芸員、ジャーナリスト、大学教員、鑑賞者らが作品を介して結びつく、開かれた結節点なのだと思う。ときに意見を戦わせながら人と作品が出合うことで何かが生まれる。私自身、作品鑑賞とともにそうした雰囲気が楽しくて画廊に通った。
当時、こうした場の緩やかなつながりが「芸術的な社会」を形成し、その地域の文化基盤を高めていくことが望ましいと考えていた。世界に開かれると同時に世界へと発信し、しかもさまざまな人たちが連携し合い、作品の鑑賞・批評、作家達との出会いを通じて、芸術の可能性を開く社会づくりを一歩一歩進めていければと願った。
もちろん、画廊は商売の場なので、慈善事業では済まない。ただ、それでも文化を担うという意味では、公共性を否定できないと思う。私がつきあってきたギャラリストも多くは「日本や名古屋の美術のために」という意識を持って粉骨砕身していた。確かに、ときに学芸員や美術評論家にこうした話をすると、「画廊は公的な存在でない。民間の画廊に役所は金を出せない」「公共性を口にするなら美術でなく、ボランティアをやればいい」と一刀両断する人もいた。
画廊に補助金を出せと言っているのではない。芸術を生み出す側にも官の側にも結局は身内的な事なかれ主義がはびこることで、必要な文化都市像や文化戦略、文化政策が欠落し、一方で資本の論理(金もうけ)に回収されるだけか、放置による文化の衰退を招くだけか、あるいは派手なイベント行政で糊塗するだけになっているのが現状だと言いたいのだ。金にものを言わせて、美術家やスタッフの多くを東京や海外から連れてくるだけで、公共の文化政策のビジョンを提示できないのであれば地元は細るしかないだろう。
もし、優れた文化戦略のもと、画廊をはじめとする各拠点が結び合い、人々の参加性を促せるなら、それらの文化資源がたとえ民間のものであっても、地域社会の文化の基礎的要素となる。というより、それらのネットワーク以外にその地域の文化的発展はないのではないだろうか。こうした意味で、画廊も映画館も劇場もホールもある種の居場所であり、社会的包摂の場であり、芸術文化の当事者参加の場であり、それゆえ社会的に保障されるべきものである。行政にとって必要なのは、画廊など民間の文化拠点(事業者)のウオンツに応えることではなく、それらのニーズをパブリックな文化戦略としてくみ上げ、環境を整えることで地域の重要な文化的・経済的資源として地道に育てていくことだ。
先に挙げた画廊の多くは、経済的な事情のほか、オーナーの病気や高齢化などで店を閉めたところが多い。気に留めておいた方がいいのは、こうした画廊の「撤退」を市場の論理だけで考えるのではなく、地域の文化的課題として認識することだと思う。ギャラリストであろうが、鑑賞者であろうが、どんな立場であろうと、芸術を愛する当事者たちの参加こそが要諦なのだから。
これは文化に限ったことではない。認知症の人の介護であれば、介護者や認知症の当事者、子育て支援や少子化問題であれば、現に子育てと仕事に追われているお母さんたち、美術であれば、地域の作家やコレクター、画廊、批評家、ジャーナリスト、学芸員や愛好者などの当事者たちが意見を出し合い、知恵を絞るしか、その地域の課題は解決しない。だが、介護に時間の大半を費やさざるをえない人たちや、経済格差に喘ぎ、非正規社員で育児に追われている人たち、こよなく芸術を愛しながら、つつましく生きている人たちは経済的、精神的余裕がなく、ひっそり見えないところで生きている。イベント主義は、一見華やかに見えながら、その裏側で芸術を愛する人たちが悩み、芸術の場から「撤退」していることに気づかないまま、お祭りに酔いしれているだけの気がする。
芸術を愛する地域社会の人たちがつながってこそ、真の活性化が起きる。美術でいえば、人々が出会う画廊こそはその要であるといっても過言ではない。もちろん、パブリックな視点をもって、画廊側も襟を正す必要がある。個々の画廊が中間団体的な連携の仕組みや場を設けることも必要となろう。多くの人たちがつながりながら、官と一緒になって芸術にとっての公共の場、いわば地域の共同意識を育む必要がある。 あるべき将来像を考え、名古屋の芸術の在り方を憂えている真摯な人たちこそ、悩みを深めている。
名古屋を、地域社会の多くの人が主体的に参加でき、それぞれの使命に向かって才能を生かせる個性的な文化都市にするにはどうすればいいのか。思い描いてきた芸術の共同的な新しいビジョンをまだ諦めているわけではない。一つには、社会の大きな変化を洞察し、地域の特徴を生かしながら、知的な魅力に満ちた芸術文化の基盤整備と、時代を切り開く作家たち、新しい価値を生み出す組織、予算と権限、作品を紹介していく場を、今、ここに生きる人たちとの協働の中から組み立てていくことだろう。
持続可能な日常的な活動の中で、民の力が結集してこそ、価値を生み出し、発展するというのは経済でも文化・芸術でも同じだし、それ以外に道はない。画廊や劇場、ミニシアター、大学などやアーティスト、批評家、鑑賞者など地域の文化資源を切り捨て、お金で東京や海外からアーティストを連れてくれば解決するという外頼みの発想に向かうのはもうやめよう。大きなイベントをある時期だけ開けばよしとする発想は、ある意味、権威主義で、金の力で「グローバル性」や「東京」、「新奇さ」「規模」「派手さ」をアピールしなければ駄目だというコンプレックスの裏返しだ。成熟した大人の地域と言われるように、各世代がつながり、各拠点がつながり、文化の歴史を紡ぎ、新しい価値を生み出せる「量より質」「外頼みより自律性」「後追いより地域の個性」「官製から協働」「イベントより日常」へと転換できる発想が欲しい。優れた画廊は、そのための重要な拠点となるはずである。
外に対して閉じた地域になれと、言っているのではない。官も民も一緒になって、より良い文化都市を創っていけるよう、土台づくりができるリーダーシップが欲しい。そのためには、大きく、包み込むようして社会を見通せる目が必要だと思う。冒頭の羽咋市役所職員の言葉を今一度、かみしめたい。地域社会の宝を活用し、つなぐことで日常的な基盤を育むには、まずは多くの心ある人たちが話をする場が必要だ。公共政策を担う自治体の行政官僚もアートの専門家たちもいずれも自分たちの領域以外のことにはアマチュアの「特殊な素人」(哲学者の鷲田清一さん)に過ぎないのだから、よほど周囲に目を凝らさないと社会の姿は見えない。
私たちは、切り捨てではなく、ネットワークによる包摂を目指して対話を進めていくしかない。どこにお金をかけるか、何を活用するか、県や名古屋市、そのほかの都市の組織やインフラをどう生かすか、民間の組織や個人とどうネットワークを築くか、イベントを展開するにしても、どう持続的に意味のあるかたちをつくりあげていくか、どう人材を引き寄せ、既存の資源との化学反応を促していくか。文化を経済として、どう質の成長につなげていくか。そうした熟議が不断にできる場をつくることこそが求められる。
 本稿は芸術批評誌「REAR」(2013年30号)に掲載されたものに加筆修正した。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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