2007-2008年の状況
2007年末ごろから2008年初めにかけたここ数カ月間の新聞や雑誌を見ているだけで、文化や芸術の置かれている状況が、のっぴきならないところにきている気がしてならない。
多くの文化関係者は自分がかかわっているジャンルについては多少、こうした時代の空気を感じているだろうが、そうした記事を以下のように紹介するならば、それが特定のジャンルに限定される事態でないことが分かるはずだ。ほんの一例を要約して紹介しよう。
美術
「2007年の美術界を振り返る」(共同通信社配信) 今の美術界の活況は、ものすごい格差の上に成立している。それでも美術が社会に必要だと言えるか。美術市場は投資で過熱し続けている▽「この1年の美術」(2007年12月17日毎日新聞夕刊)マーケットが売れる条件を最優先とするように、客の入りを第一義とする価値観が以前にもまして猛烈な勢いではびこってきた。規範的な美の通念と闘う現代美術の発表がいよいよ狭められた▽「バブルにわく内外のアートシーン」(2007年12月11・21日合併号新美術新聞。村田真氏)今は、「いい作品が売れる」のではなく、「売れる作品がいい作品」という風潮。アートのマネーゲーム化、エンターテイメント志向が進んでいる▽「公立の美術館・博物館調査」(2008年1月22日朝日新聞)文化庁の調査で、全国の公立美術館・博物館の館長の55%は、行政のみの経験者。51%は非常勤。資料収集費(2006年度)をみると、予算を計上していないところが40%もある。
映画
「邦画バブル、現場に危機感」(2007年11月11日 日経新聞)テレビ局が出資・制作に絡んだ作品、出版社や広告会社など複数の企業が出資する製作委員会方式が主流となり、「テレビ局+原作+シネコン」によるマーケティングがヒットの方程式になってきた。ベストセラーやテレビドラマの映画化など企画が保守化し、テレビドラマを映画と称して上映しているだけ。理念喪失のビジネスとなった映画はただ消費され、文化としてどんどん衰退するだろう▽「活用手段増え商品性高まる」(2007年12月4日毎日新聞)映画を繰り返し活用可能な「コンテンツ」ととらえる時勢で、映画の商品としての重要性がかつてなく高まっている。日本映画のヒット作は、子供向け定番アニメと高視聴率ドラマ、人気マンガの映画化ばかり。外国映画は、興収10-20億円台の中規模ヒット作が激減。買い付け価格も高騰し、単館系作品は興業として成り立たせることが難しい。安易なコンテンツ化は映画を画一化する。経済的利益だけではない価値を認め、多様な映画が作られ、見られる環境を。
出版
「危機に直面する出版産業」(2007年12月16日 日経新聞)十年間、市場が縮小し続け、中小書店が激減。物書き志願者と新刊点数だけが増え、読者と発行部数は減る一方。娯楽も情報収集も主戦場はインターネットに移った。業界自閉的な見方ではどうにもならない段階。
地方美術館の窮状
ほかに文学についても同じ趣旨の記事を見かけた。挙げればきりがないのだが、特に印象的だった雑誌メディアの記事にも触れたい。
例えば、「あいだ」の140号、前・伊丹市立美術館長の坂上義太郎氏が指定管理者制度に翻弄される地方美術館について書く「文化の継承と蓄積のために ある地方美術館での20年」、北九州市立美術館、広島市現代美術館の窮状を報告した「あいだ」143号の「特集・美術館の傷痕」などは、美術館関係者はぜひ目を通すべきではないだろうか。
特に後者の北九州市立美術館の没落の告発記事には大きなショックを受けた。そして、こうした事態は、程度の差こそあれ、東海地方を含め、ほとんどの公立美術館が直面している問題だ。資金が潤沢な一部の美術館を除けば、大半の公立美術館は、予算削減や、指定管理者制度導入などによるガバナンスの混乱で存在すら危ぶまれている。
グローバル資本主義の猛威
芸術の商品化と、市場や商品の芸術化。文化財は消費財として世界的に取り引きされ、芸術環境は破壊された。こうした状況を惹起しているのは一体何か。それを詳らかに説明することなど筆者の手に余るが、猛威をふるう市場主義、ひいては、勝つか負けるかの資本主義のグローバル化のシステムがその本質にあるということだけは確かだろう。
こうした文化状況に対して、これまでに歴史上なかった新たな資本主義の世界的浸透の段階が到来したとする考え方があるし、ネグリ、ハートによる帝国もそうした考えに適合する。
読売新聞の特派員が書いたコラム「グローバル化への懐疑論」(2007年12月18日)は、米国では、格差拡大によって、2005年に、最も豊かな上位1%の層には国民全体の所得の21%が集中し、下位50%は全体の13%に過ぎなくなったと紹介。その一因を、経済や金融化のグローバル化にみている。
グローバル資本主義の暴走によって、新たな投資対象を求めるマネーはアートにも流れ込む。森美術館長の南條史生氏もこう書く。「今や商業主義とグローバル化は押しとどめようもない・・・(美術館が)イベント・スペース化する傾向は全世界的である・・・広告とアートの境目は限りなく薄くなり、アートは蒸発する」(2007年9月21号新美術新聞)。
普遍主義のパラドックス
昨年話題になった大澤真幸氏の大著「ナショナリズムの由来」は、「資本主義とは過剰なゴミを生産システムである」と書く。
同書によると、国民国家が解体していった後は、「美しい」美術がその場所を失い、最も美術らしくないものが美術になるという不調和性が美術を芸術たらしめてきた。
大澤氏は、ゴミだと分かっているがやめられない「アイロニカルな没入」の適例である、この現代芸術のパラドックスは、現代の普遍主義の中でこそ、特殊主義としてのナショナリズムが隆盛を極める事態とパラレルである、だというのだ。ここに、普遍主義と特殊主義の通底、結託がある。
もう一つ、普遍主義のパラドックスの問題。近代科学の知について、鷲田清一氏の「思考のエシックス 反・方法主義論」が、「体系性と統一性、自己決定性と自己完結性、これらは自給自足の閉鎖系を形成しようとする」と書くとき、美術のモダニズムもそうだろうが、近代の普遍主義は、無自覚に「他性」を吸収して、その体系の中のものにつくり変えることで、閉鎖系を作りながら無限に拡張していく理性概念となる。
資本主義という普遍主義も、欧米の価値観が外部を次々と内部化していく過程としてとらえることができるが、大澤氏は、いまだそうした普遍主義に本当の普遍性がないのだとすれば、そこからあぶれる外部の人達は、自分たちの特殊性を主張するぎりぎりのナショナリズムを生み出してくる、と読み解く。
自給自足の資本主義の暴走と、民主主義の破たんが始まったとき、少しでも真の普遍性に近づくカギは、「他性」について考える葛藤そのもの、「他・自律」(自己の成立を他者に負っている他律においてのみ、自己に法則を与えられる自律となりえる)にあるのかもしれない。
他者の介在によって自己を中断すること、そうして、自己とは別のものに開かれることで、新しく始めること(ヴェルナー・ハーマッハー「他自立 多文化主義批判のために」)。
民主主義や資本主義にしろ、現代美術にしろ、そうした普遍性をまとうお題目の概念の範疇からはみ出たものもの、そうした閉じた世界からは数えられないものに自らを開き、新たに別のものを想起し、始める余地があるかどうか。
資本主義的な成長が不要だ、格差や偏在を全て否定するとなると、古めかしい通念に後退するだけとなる。何が必要なのか。
資本主義の矛盾が極端になりつつある今、未だ芸術たりえない自分らしさ、「自律した」その固有の文化をグローバリズムに乗せない別の方法で提示することはできないか。
あるいは、従来の閉鎖系の中で新しいだの、古いだのという進歩・発展の尺度だけで芸術をみると、常に「今」から逸脱していくしかなく、消費的なごみのような作品や、デザイン的なグッズを生み出すしかない。
ある社会学者によると、1970年代以降、社会や社会意識の発展速度はスローダウン化し、歴史の変化率が落ちているという。変化がない時代に資本主義的差異だけを求めても、同じようなものばかりが蔓延し、すぐに陳腐化するだけだろう。
逆に、進歩・発展の摂理を気にしなければ、そうした逸脱・ゴミ化の方向への強迫観念から自由になれるのかもしれない。
資本主義の世界に生きながら、今までのアイデアに接ぎ木した新しさのみが価値を持つ資本主義、過剰な市場主義と正しい距離をもつこと。
現代アートという閉鎖した世界に安住して、欲望を形式化するだけのアーティストほど、つまらない存在はない。
大澤氏は指摘する。グローバル化した資本主義の均質な世界は、多文化主義と表裏一体の関係にあり、それは世界中を平等に搾取する欺瞞だとも言えるのだと。
この記事は、芸術批評誌「REAR」(2008年、18号)に掲載されたものに加筆修正したものです。