愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品の最新第28作、小田香監督の「セノーテ」(2019年、75分、デジタル)が2019年6月16日、同センターのアートスペースAで初公開された。神秘的な水中と充溢した光芒、洞穴奥の影、マヤ文明に淵源をもつ人々の姿や暮らしが紡ぎ出される美しい映像。会場には、多くの観客が詰めかけ、上映後の小田監督のトークや質疑も大いに盛り上がった。映画の画像クレジットはいずれも、小田香「セノーテ」(2019年)。
メキシコのユカタン半島北部に点在する洞窟内の泉「セノーテ」で、小田監督自らがダイビングを学んで水中撮影に挑んだ意欲作。これまでも、世界の異次元の空間の美しさに魅せられ、自身の身体を投げ込んできた。探究心に駆られ、今なお映画の可能性を開示させたいと、今回は、マヤ文明の時代に雨乞い儀式で生贄が捧げられた泉に潜った。美しさとともに不穏な雰囲気もたたえる水源の映像に、小田監督はバナキュラーな文化、人々の暮らし、歴史と伝承を織り込んでいった。トークの聞き手は、愛知県美術館主任学芸員の越後谷卓司さん。
「セノーテはものすごくいっぱいあって、観光地化されているところもある。3、40カ所回ったけど、大きいところ、小さいところ、家庭用の井戸みたいなところまであった。25カ所ぐらいで水に入り、ダイビングしたのは3カ所」。そう語り始めた小田監督は「太陽を光源に使って遊ぶように撮影した」と続けた。美しい映像はセノーテの水中とそこに降り注ぐ光というイメージが強い。
小田監督は、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2015」アジア千波万波部門で特別賞を受けた前作「鉱 ARAGANE」(2015年)で、ボスニア・ヘルツェゴビナのブレザ炭鉱を訪れ、坑夫らに密着取材。暗闇の中での過酷な労働を静謐な映像で記録した。漆黒の闇から神秘の水中へと転じた今回の映像は、豊かな光の帯が戯れる水中や水面、水上の映像に、マヤにルーツをもち、今もこの地に生きる人々の生や、日々の暮らし、集団的記憶や原風景を加え、映像人類学のような手法で描いているのが特徴だ。「知らないもの、理解できないものを知りたい、感じたい」と小田監督。
小田監督によると、メキシコ人に「(『鉱』の次の作品は)海を撮りたい」と言って教えられたのが海でなく、セノーテだったという。とにかく水中撮影がしたくて調べる中で、セノーテが撮影対象に決まった。
映像は闇の中、獣の鳴き声で始まる。セノーテは、現世と黄泉の国を結ぶ古代マヤ文明の水源で儀式の場。水中を泳ぐ身体が横切ったかと思うと、光の束が広がり、水中から撮影した映像が続く。水面の浮遊物をカメラが捉え、また水中へ。太陽光線が水中に広がるさまが美しい。揺らぎ、きらめきながら流れる水の宇宙。光の透過、反射、カメラの移動が方向感覚を失わせる。同時に水中で撮影している時の荒い息遣いが聞こえてくる。オリジナル映像作品のテーマは「身体」。小田監督自身が撮影するというスタイルに身体性が端的に現れ、それは、炭鉱に下りていくという前作「鉱 ARAGANE」から一貫している。
カメラは地上と水中(魚影も見える)や水底、水面、光線のきらめきを往還し、そこに人々の声が重なる。水中の洞窟から覗く空。廃墟、茂み、昆虫、家畜、日々の手仕事、ささやくような詩的な呟き、歌声。あるいは、若い男がセノーテに行き、水にのまれて戻ってこなかったという伝承、大蛇がセノーテの主だという語り部の説話。村人が水と泡に引っ張り込まれ、その後、誰も遺体を見つけられなかったなどという古老の記憶が呟かれる。日々の素朴な暮らしと祭り、生者と死者、光とセノーテの奥底の影、そして次々と大写しにされる人々の正面の顔。「生きて死ぬのだろう」。水中をゆっくり進む映像とともに啓示的な語り、鳥のさえずりが届く。
「鉱 ARAGANE」の際には、2013年冬からボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの郊外で3年間、暮らし、映画学校「フィルム・ファクトリー」に所属。一期生として、「サタンタンゴ」などで知られるハンガリー人映画監督のタル・ベーラに師事した。上映後のトークで、越後谷さんは「タル・ベーラのところで学んだということで、はくが付いている。映画の本質からアプローチする姿勢を感じる」とコメントした。
実際、「関西=ヤマガタ ネットワーク通信」(No.2)に掲載された小田監督の文章によると、タル・ベーラは、映画教育を信じていないが、その一方で、果敢な新人が第一線の映画人から映画表現に対する姿勢を学ぶための「シェルター」「家」となる場所を提供してくれたという。そこで体験した「映画と己の関係性を突き詰めて考える時間」が彼女の現在の骨格になっているのだろう。小田監督は、ここで、なぜ撮るのか、その先に何を見るのかという問いへの視界を開き、映画の可能性や映画がもたらす幸福感、絶望感、希望を信じることができるようになったという。
イメージとサウンドがもたらす映画体験の可能性を探求し、被写体である坑夫たちと撮影者である小田監督の関係性がイメージにどのように反映させるかの実験だったという前作。越後谷さんが「セノーテ」について「後半にはスクラッチしている映像など、抽象的なところもあった」と水を向けると、小田さんも「実験映画的な部分」と回答。越後谷さんは「今回は、ストレートなドキュメンタリーからはみ出している」と続けた。
前作「鉱 ARAGANE」には文字情報がなかったが、今回は、ナレーション(語り)の字幕が出る。映画の中には、古代マヤの詩、現地の人たちの演劇のせりふ、小田監督が読んだ「セノーテ」に関わる本などから数多くの引用があり、映像に重ね合わされている。小田監督は「言葉から考えていくと、うまく行かなかった。まずは水のイメージがあって、そこから音が入ってきて、地元の人へのインタビューなどを通じて詩的な言葉が加わっていった」と述べた。
映像の中では、数多くの現地の人たちのポートレートが、一般にはあまり使われない正面ショットで大写しにされ、強い印象を放つ。「撮影者である私が彼らを見ているけど、同時に向こうからも見られている」と小田監督。ここには、常に撮る側が見るだけでなく、現地の人からも見られているという相対的な眼差しの交感があり、ここでも前作「鉱 ARAGANE」同様、撮影者と撮影される側との関係性が重要な要素になっている。
同時に、小田監督が「この映画のキモ」と話すのが、「死者の視線」だ。撮影者である小田監督、そしてその映像を通して、「セノーテ」に深く分け入る私たち鑑賞者の眼差しに対し、生贄となった見えない死者から、見られているという感覚に取り憑かれる場面がある。古代マヤの詩、現地の演劇のせりふ、語り部の伝承なども、そうした眼差しを意識させる。小田監督は「10代の少女が担当したナレーションの声は、生贄になった少女たち、死者の声です」と語り、こう続けた。「この死者の声は、現代の人たちへの声であり、そして、映画が一つのアーカイブ、記録装置であるとするなら、未来にこの映画を発見してくれる人に対する声でもあります」。死者の目線が、私たち今を生きる人たち、そして未来の人たちに向けられているのである。
小田監督は、上映前、受付に立ち、訪れた鑑賞者たちに3枚入りのポストカードをプレゼントした。このうち、2枚は「セノーテ」の画像。もう1枚は小田さんが描いた油絵だった。小田さんは「メキシコのプロジェクトにくっつけて取り組んでいる作品。2年かけて描いた100枚のミューズシリーズ」と説明。日本にいて、資金がたまるとメキシコを訪れていたが、それだけだと、「セノーテ」についてデイリーベースで向き合う対象がない。そこで、「『セノーテ』の中で語りをしてくれた現地の少女たちというイメージで描いてきた」という。こうした姿勢に撮影対象への小田監督の深い関わり方が読み取れる。
愛知芸術文化センターは1992年の開館以来、1年1本のペースで、映像表現の可能性を切り開く実験的な作品を提供してきた。テーマの「身体」をそれぞれの映像作家がどのように解釈するかも注目されている。小田監督は、今後の撮影対象を尋ねられ「宇宙」と発言。映像の力によって、未知の世界を開示する意欲を力強く語った。