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「山の焚火」 フレディ・M・ムーラー特集 名古屋シネマテークで3月21日から

映画史に輝く“山”映画の最高峰、『山の焚火』。『我ら山人たち』 『緑の山』を合わせて一挙公開!

 ダニエル・シュミットやアラン・タネールらとともに1960年代後半に起きたスイス映画の新しい潮流「ヌーヴォー・シネマ・スイス」の旗手として知られるフレディ・M・ムーラーの山の映画を集めた「マウンテン・トリロジー」が、2020年3月21日〜4月3日、名古屋・今池の名古屋シネマテークで開かれる。
ムーラーの代表作である『山の焚火』(1985年)とともに、2本のドキュメンタリー映画『我ら山人たち─我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない』(1974年)と『緑の山』(1990年)を同時上映する。

 『山の焚火』は、ロカルノ国際映画祭で金豹賞(グランプリ)を受賞。世界にムーラーの名を轟かせた。スイス国内では25万人を動員し、スイス映画アカデミーからスイス映画史上最高の一作に選定され、話題を呼んだ。

ムーラーは1940年、スイスの山岳地帯ニトヴァルデン準州ベッケンリートに6人兄弟の末っ子として生まれた。ウーリ州アルトドルフで少年時代を過ごし、1959年にチューリッヒの美術工芸学校に入学。製図を学んだ後、写真専攻に変更。映画制作にも興味を抱く。

 1962年、8ミリによる短編映画『マルセル』を発表。その後、短編や中編のドキュメンタリー映画を発表し、国際的な評価を得る。1969年オムニバス映画の一篇としてSF作品『スイスメイド─2069篇』(1969)を監督。渡英しロンドンで教鞭をとり、帰国後の1972年、『エイリアン』(1979年)で有名になる以前の画家H・R・ギーガーとの親交から、彼の創作イメージの過程を探ったドキュメンタリー映画『パッサーゲン』を発表。1974年、『我ら山人たち─我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない』を発表しロカルノ国際映画祭国際批評家賞を受賞した。
 1979年、初の劇映画『灰色の領域』を制作。1985年には『山の焚火』を発表し、ロカルノ国際映画祭金豹賞およびエキュメニカル賞を受賞するなど高い評価を受ける。1990年には、「マウンテン・トリロジー」を構成するドキュメンタリー作品『緑の山』を発表した。

山、人、魂の交感

 <マウンテン・トリロジー(山三部作)>は、民話と山人に惹かれたムーラーが、吸い寄せられるように生まれ育ったスイス・ウーリー州の山岳地帯に戻り、長期取材を敢行。人と自然とともに、現代を予知したかのような今日的問題を大胆な創意と圧倒的な映像で描き出す。ムーラー監督は、「山人の生活には、魔術的でアニミズム的な思考が、現実的かつ合理的な思考と共存しながら根付いている」と語っている。

「マウンテン・トリロジー」上映作品

『山の焚火』

山の焚火

広大なアルプスの山腹。人々から隔絶された地で、ほぼ自給自足の生活を送る4人家族。10代半ばの聾啞の弟は不自由さゆえに苛立つこともあるが、姉と両親の愛情を一身に受け健やかに育つ。ある日、草刈り機が故障したことに腹を立てた弟は、それを投げ捨て父の怒りを買う。家を飛び出し山小屋に隠れ、一人で生活をする弟。そこに食料などを届ける姉。二人は山頂で焚火を囲み楽しい時間を過ごすが、やがて姉の妊娠が発覚し…。

 映画の舞台となった一軒家は、ムーラー監督が100軒以上も歩いて見た農家の中から見つけた小屋である。荒れ果てていたものを増築。家具や食器を運び入れるなどして整えた。役者やスタッフは、山裾の宿に泊まり、ケーブルカーで小屋のある山上の撮影現場と行き来した。撮影のピオ・コラーディは、本作の前まで4本の長編映画を手掛けただけだったが、屋外での複雑な移動撮影、屋内での少ない光源の撮影などで見事に美しい映像を撮り上げた。
 スイス/ 1985 / スイス・ドイツ語/ カラー/117分 1985年ロカルノ国際映画祭金豹賞およびエキュメニカル賞

我ら山人たち—我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない

我ら山人たち—我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない

 ムーラーが自らの故郷ウーリ州の山岳地帯で撮った長編ドキュメンタリー作品。変わりゆく山岳地帯に住む山人たちの生き方と精神世界に迫る。映画は地域によって3つのパートに分かれている。

 長いトンネルを抜けた先にある第1部の舞台はゲシェネンの渓谷。トンネル建設によって自然環境の バランスが崩れ、長年営まれてきた牧畜経営の破綻する運命が示される。
 第2部の舞台シェーヒェンの渓谷では、伝統的な高原の牧畜経営が維持され、直接民主制によって多くの政治的選択が行われている。
 第3部の舞台マデラーナー渓谷のブリステンでは、牧畜経営だけでは共同体の運営が難しいため、住民の半数は外へ働きに出ている。1973年から1975年にかけて撮影された本作には、民俗学的なテーマや共同体の閉鎖性など『山の焚火』に繫がる要素が詰まっている。
 スイス/ 1974 / スイス・ドイツ語/ カラー/108分 1974年ロカルノ国際映画祭国際批評家賞受賞

緑の山

 アルプスの山間で持ち上がった放射性廃棄物処理場の建設計画が題材。土地と自分たちのルーツを守ろうとする反対派と賛成派の住民たちを追ったドキュメンタリーである。ムーラーが「子どもたちと子どもたちの子どもたち」に捧げたとする作品は、次世代に責務を負うべき大人たちに問いを突きつける。

 1988年、NAGRA(ナーグラ:国立放射性廃棄物管理協同組合)が、ニトヴァルデン準州ヴェレンベルクに、原発に使われた核の最終廃棄物処理場を建設する計画を発表。地域住民の抗議団体が形成される。支持者と反対派へのインタビューを踏まえ、直接影響を被る人々、ヴェレンベルクで数世代にわたって暮らしてきた家族に焦点が当てられる。彼らは、放射線の危険性を目前に、自身のルーツと生活の地を奪われることに直面している。
 政治家、地質学者、医学者など、さまざまな立場の人々の話から、一過性の限定された地域の問題にとどまらない、人間の寿命をはるかに超えるスケールの問題を提起する。
 スイス/ 1990 / スイス・ドイツ語/ カラー/ 128分

山の焚火
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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