テーマは「灰と薔薇のあいまに」
国際芸術祭「あいち」組織委員会は、2025年9月13日~11月30日の日程で愛知芸術文化センター、愛知県陶磁美術館、瀬戸市のまちなかを会場に開く国際芸術祭「あいち 2025」のテーマを「A Time Between Ashes and Roses 灰と薔薇のあいまに」に決定した。
2月1日、愛知芸術文化センターで開いた記者発表で、参加アーティスト(第1弾)、企画体制などとともに発表した。発表された4組の参加アーティストは、ダラ・ナセル、 小川待子、沖潤子、アドリアン・ビシャル・ロハスの4氏。
芸術監督は、Hoor Al Qasimi(フール・アル・カシミ)さん。
テーマは、ノーベル文学賞候補にもなっているシリア出身の詩人、エッセイスト、翻訳家、アドニスの詩集「灰と薔薇の間の時」から取られ、国家や領土といった目先の視点からではなく、地質学的な時間軸によって見えてくる未来の展望を提示する、としている。
また、企画体制では、 愛知県陶磁美術館と愛知県瀬戸市のまちなかが会場となることを受けて、現代美術のキュレーターに、 近現代陶芸を専門とする入澤聖明さん (愛知県陶磁美術館学芸員)が入ったことが注目される。
入澤さんが担当した展覧会に 「異才 辻晉堂の陶彫̶陶芸であらざるの造形から」(2020年)、「ホモ・ファーベルの断片」(2022年)などがある。
発表された参加アーティストの中の1人、小川待子さんは陶芸家である。
コンセプト詳細
A Time Between Ashes and Roses
灰と薔薇のあいまに
コンセプト要約版(※全文を記事の末尾に掲載)
国際芸術祭「あいち2025」は、詩人アドニスの詩集『灰と薔薇の間の時』から出発します。その心情とヴィジョンに共鳴するこの芸術祭は、現在の人間と環境の間の分断を照らし出す国家や領土といった目先の視点からではなく、地質学的な時間軸によって見えてくる未来の
展望を提示します。本芸術祭は、極端な終末論と楽観論を中心に据えるのではなく、環境正義(出自や所得の多寡にかかわらず公平に安全な環境で暮らす権利を持つこと)の重なり合う複雑さを扱うことで、自らの責任に向き合い、不正義への加担を自覚するよう促しています。そしてまたこの芸術祭は、破壊と開花のあいまにある陰影のニュアンスや表現、人間と環境の複雑に絡み合った関係を強調します。
世界中から招くアーティストやコレクティブによる作品は、私たちが生きる環境について既に語られている、そしてまだ見ぬ物語を具現化してくれるでしょう。キュレーターの使命とアーティストの作品は、この芸術祭の地域性を掘り下げ、陶磁器や「せともの」の生産に触発
された環境の物語を掘り起こします。こうした産業は地域の誇りの源であり、人間と環境の関係の新しく実験的なモデルを模索する本芸術祭の枠組みを支えています。愛知の産業史において、陶磁器生産によって灰のように黒く染まった空は、環境の汚染や破壊よりもむしろ繁栄を意味していました。こうした地場産業や地域遺産は、人間と環境の複雑に絡み合った関係について、ニュアンスに富んだ思考への道を開いてくれるのでしょうか。「灰と薔薇のあいまに」とは、当然視されてきた位置づけやヒエラルキーが解きほぐされるよう、幅を持ち中間にある状態を引き受けること、そのような横断的なあり方なのです。
国際芸術祭「あいち 2025」芸術監督
フール・アル・カシミ
参加アーティスト(現代美術・第1弾)
アーティスト | 出身/拠点 |
ダラ・ナセル | レバノン/レバノン |
小川待子 | 北海道/東京都 |
沖潤子 | 埼玉県/神奈川県 |
アドリアン・ビシャル・ロハス | アルゼンチン/アルゼンチン |
ダラ・ナセル
1990年スール(レバノン)生まれ。ベイルート(レバノン)拠点。
多様な素材を用いて、抽象概念とオルタナティブなイメージを表現する芸術家、ダラ・ナセルは絵画、パフォーマンス、そして映画などのジャンルを横断した作品を手掛ける。ナセルの作品は、資本主義と植民地主義的な搾取の結果として悪化していく環境、歴史、政治的な状況に、人間と人間以外のものがどのように関わり合っているかを探求する。ナセルは、伝統的な風景画の広大な視点とは対照的に、土地をインデックス的に捉えた絵画で、政治や環境における侵食に焦点を当てる。彼女は自らの作品を通して、人間の言葉が届かない中で環境がゆっくりと侵され、侵略せし者が搾取を行い、インフラが崩壊する様子を、人間以外のものの視点から表現する。
発表歴
2023 個展「Adonis River」ルネサンス協会(シカゴ、米国)
2023 第15回シャルジャ・ビエンナーレ(アラブ首長国連邦)
2022 第58回カーネギー・インターナショナル、カーネギー美術館(ピッツバーグ、
米国)
2022 「The Dead Shall be Raised」ポンピドゥー・センター(パリ、フランス)
2022 個展「Red in Tooth」ケルン美術協会(ドイツ)
小川待子
1946年北海道生まれ。東京都拠点。
東京芸術大学工芸科を卒業後、1970年からパリ国立高等工芸学校を経た後、人類学者の夫の調査助手として西アフリカ各地で3年半を過ごし、現地の土器づくりの技法を学ぶ。パリ滞在中に鉱物博物館で、鉱物の美しさの中に「かたちはすでに在る」という考え方を見出し、ゆがみ、ひびや欠け、釉薬の縮れなどの性質を活かし、つくることと壊れることの両義性を内包する「うつわ」として、始原的な力を宿す作品を制作している。
発表歴
2023 「Shiryū Morita, Machiko Ogawa」ギャラリー・フランク・エルバズ
(パリ、フランス)
2023 「Frieze Masters 2023」(ロンドン、英国)
2023 「エマイユと身体」銀座メゾンエルメスフォーラム(東京)
2022 「Toucher le Feu」国立ギメ美術館(パリ、フランス)
2019 《掘りだされたとき》(コミッション・ワーク)カタール国立美術館(ドーハ)
沖潤子
1963年埼玉県生まれ。神奈川県拠点。
生命の痕跡を刻み込む作業として布に針目を重ねた作品を制作。下絵を描く事なしに直接布に刺していく独自の文様は、シンプルな技法でありながら「刺繍」という認識を裏切り、観る者の根源的な感覚を目覚めさせる。古い布や道具が経てきた時間、またその物語の積み重なりに、彼女自身の時間の堆積をも刻み込み紡ぎ上げることで、新たな生と偶然性を孕んだ作品を生み出す。存在してきたすべてのもの、過ぎ去ったが確かにあった時間。いくつもの時間の層を重ねることで、違う風景を見つけることが制作の核にある。
発表歴
2022 個展「沖潤子 さらけでるもの」神奈川県立近代美術館鎌倉別館
2021 「北陸工芸の祭典 GO FOR KOGEI 2021」那谷寺(石川)
2020 個展「anthology」山口県立萩美術館・浦上記念館
2017 個展「月と蛹」資生堂ギャラリー(東京)
2016 「コレクション展1 Nous ぬう」金沢21世紀美術館(石川)
アドリアン・ビシャル・ロハス
1980年ロサリオ(アルゼンチン)生まれ。ロサリオ(アルゼンチン)拠点。
アドリアン・ビシャル・ロハスは、共同制作やコラボレーションによる長期的なプロジェクトを構想してきた。その大規模でサイト・スペシフィックなインスタレーションの数々は、堂々とした印象を与えるのと同時に、どこか脆さも感じられる。ロハスは、彫刻、ドローイング、ビデオ、執筆、行為や事象の痕跡などを組み合わせながら、すでに絶滅に遭ったか、絶滅に瀕して危険にさらされている人間の状態を研究し、過去、現在、未来が折り重なるポスト人新世時代における、種間の境界線を探る。
発表歴
2022 個展「The End of Imagination」ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館
ザ・タンク(シドニー、オーストラリア)、バス美術館(マイアミ、米国)
2017 個展「The Theater of Disappearance」ゲフィン・コンテンポラ
リー・アット・MOCA(ロサンゼルス、米国)、メトロポリタン美術館(ニュー
ヨーク、米国)、アテネ国立観測所ネオン(ギリシャ)、ブレゲンツ美術館
(オーストリア)
2015 個展「ファンタズマ」ストックホルム近代美術館(スウェーデン)
2013 個展「Today We Reboot the Planet」サーペンタイン・ギャラリー
(ロンドン、英国)
2012 ドクメンタ13(カッセル、ドイツ/カブール、アフガニスタン)
企画体制
芸術監督:フール・アル・カシミ (シャルジ ャ美術財団理事長兼ディ レ ク タ ー/国際ビエンナーレ協会会長)
学芸統括:飯田志保子 (キュレーター)
キュレーター(現代美術):入澤聖明 (愛知県陶磁美術館学芸員)
キュレーター (パフォーミングアーツ):中村茜(パフォーミングアーツ・プロデューサー)
キュレーター (ラーニング):辻琢磨(建築家)
キュレトリアルアドバイザー(現代美術)
石倉敏明(人類学者/秋田公立美術大学アーツ&ルー ツ専攻准教授)
趙純恵(福岡アジア美術館学芸員)
コンセプト全文
枯れ木に花は咲くのか
灰と薔薇の間の時が来る
すべてが消え去り
すべてが再び始まるときに(※1)
モダニズムの詩人アドニスは、1967年の第3次中東戦争の後、アラブ世界を覆う灰の圧倒的な存在に疑問を投げかけ、自身を取り巻く環境破壊を嘆きました。アドニスの詩において、灰は自然分解の結果生じるものではなく、人間の活動による産物、つまり無分別な暴力、戦争、殺戮の結果なのです。環境に刻まれた痕跡を通して戦争を視覚化することで、アドニスは、直接的な因果関係や現代的な領土主義の理解ではなく、地質学的かつ永続的な時間軸を通して戦争の遺産を物語ります。したがって、アドニスにとってそれはただ暗いばかりではありません。消滅の後には開花が続くからです。
この感情は、再生と復活のためには必ず破壊と死が先行するということ、そして人類の繁栄のためには、恐怖を耐え忍びながらその道を歩まなければならないという、一般的な心理的概念を表しています。アドニスは、希望と絶望の感情と闘いながら、新たな未来、現在と過去に結びつく恐怖から解放された未来を思い描きます。戦争を国家、民族、部族、人間中心的なものよりも、集合体としての環境という視点から理解しようとすることで、アドニスは戦争の多様な顔を強調します。すなわち、人類が引き起こした戦争、地球に対する戦争、私たち自身の内なる戦争、他者との戦争、ヒエラルキー・服従・抑圧・飢饉・飢餓・搾取をめぐる象徴としての戦争、資源とエネルギーをめぐる戦争、所有権や著作権をめぐる戦争、希望・夢・想像力をかけた戦争などです。
観察者、目撃者として戦争と破壊を経験したアドニスがこの詩を書いた政治的背景は、私たちの現在の経験にも根差しており、この芸術祭ではそれをさらに拡張しています。「灰と薔薇のあいまに」というテーマにおいて、私は人間が作り出した環境の複雑に絡み合った関係を考えるために、灰か薔薇かの極端な二項対立も、両者の間の究極の境界線も選ばないことにしました。むしろ、啓蒙思想の知識文化から受け継がれた両者の境に疑問を投げかけ、人間と環境が交わる状態、条件、度合いを想定します。今回の芸術祭では、戦争と希望という両極のいずれでもなく、その間にある私たちの環境の極端な状態を受け止めながら、人間と環境の間にあると思われている双方向の道を解体する可能性を探ります。
「灰と薔薇のあいまに」において、私は、人間と自然の関係についての規範的な枠組みとは異なる問いを投げかけます。すなわち、人間が自然を変質させているのでしょうか、それとも自然が人間を変質させているのでしょうか。人間とは単なる生体物質なのでしょうか。内面的で心理的な人間と、外面的で植物的な世界との間に明確な区別はあるのでしょうか。人間と環境の現代的な関係に取り組むとき、人新世から資本新世、プランテーション新世、クトゥルー新世(※2)といった規範的な概念を受け入れ、批判するしか方法はないのでしょうか。芸術作品や展覧会制作は、未知の場所としての環境にアプローチし、新たな物語を発掘し、別の視点を見つけることができるのでしょうか。
第6回となる国際芸術祭「あいち2025」では、人間と環境の関係を見つめ、これまでとは別の、その土地に根差した固有の組み合わせを掘り起こしたいと考えました。農業が機械化され領土が金融化される以前には、世界の至るところで共同体が自然を管理し、環境景観との相互関係を発展させていました。そうした共同体は、自然の権利や保護を意識し、それを取り巻く動植物の生息地との間に親近感を感じて、互いに信頼し、育み、補い合う道を築いていました。この芸術祭では、そのような枠組みを現代的な芸術実践の一部として歓迎します。
このキュレトリアルなアプローチは、人間の痕跡が上に刻まれた複合体としての環境という現代的な想像力とは異なる、環境と共にある想像力の上に成り立っており、またそれを育むものでもあります。農業、化石燃料の採掘、深海採掘、資源の略奪、原料となる天然資源の開発といった活動が、帝国主義的な構造から受け継がれた成長中心の考え方と同様に、人間が環境に対して絶えずダメージを与えるシステムを構築し、また人間が環境に依存する危険な構造を発展させてきたことは、周知のとおりです。加えて、環境に関する私たちの知識は人間中心的であり、自分たちの利益のために環境を変質・改造することができる存在として、人間を人間以外の生命体よりも優位に置いています。
人間は、原材料を収奪できる空間へと環境を均す専門技術を持ったエンジニアであるだけでなく、人類の間に存在する不平等を再強化してもいます。今日私たちが占有している環境は、ある共同体が他の共同体よりも恩恵を受け、その生活の質が高まるように、異質化され、細分化され、分類され、モデル化されています。現在のグリーンエネルギー化の言説もまた、片方の半球にいる人々のためのものであり、他方で環境回復のために欠かせない方策の恩恵を受けることのできない共同体が、世界中至るところに存在しているように思われます。このように、今日の人間と環境にまつわる実践の多くは、人種、社会、差別についての知識や考え方を何度も繰り返しているのです。
この結果、地球上の多くの地域が、何世紀にもわたって資源を採掘してきた植民地帝国の名残を生き、多国籍の食料・エネルギー・農業企業によって身動きが取れない現状に直面しています。こうした共同体の多くは、西側世界の植民地の遺産が作り出した人間と環境の関係から不当に大きな影響を受けており、そのような現在の都市と市民の構造は、私たちが今目にしている地球規模の変化の不可避的な原因となっているのです。そうした変化は、絶え間なく続く先住民族の大量虐殺と領土の略奪、植民地化された領土での数十年にわたる核実験、そして生活環境の壊滅的な喪失と人々の屈辱をもたらした、プランテーションや鉱山での強制労働の暴力とトラウマといった遺産の上に存在しています。このことは、私たちの寿命よりも長いスパンで感じられるようなかたちでこの惑星の地質を変え、そして今もなお変え続けており、人類そのものの生存に深刻な影響を及ぼしています。
今回の芸術祭では、現在の人間と環境の関係に関する一筋縄ではいかない物語や研究を念頭に置きながらも、私たちが直面している極端な終末論も楽観論も中心としないことを目指しています。私は、環境正義(※3)に関する対話に複雑さを重ねることによってのみ、私たちが自らの責任に向き合い、不正義への加担に気づくことができるのだと考えています。ヒエラルキーの押しつけや偏った読み方を避けるために、世界中からアーティストやコレクティブを招き、私たちが生きる環境について既に語られている、そしてまだ見ぬ物語を表現するのです。アドニスが想像したように、試練を乗り越えて死や破壊に耐えるからこそ自然は回復力を持つのでしょうか。それとも、生命を奪われ機械化された空疎な気候フィクション(※4)が表現するディストピア的で黙示録的な未来像が、今まさに私たちが生きる現実なのでしょうか。
愛知県に根差した今回の芸術祭には、灰と薔薇の間にある日本独自の環境に対する想像力も組み込まれます。愛知県は陶磁製品の産地として、瀬戸市は「せともの」の生産地として知られています。周囲の環境から得た素材や資源を用いるこれらの地場産業は、アーティストたちの新作の中にも立ち現れてくるでしょう。こうした産業は、地域の誇りの源であり、人間と環境の関係についての新たなモデルを模索する本芸術祭の支柱となります。たとえばこの地では、歴史的な写真や資料で目にする陶磁製品の生産によって作り出された灰のような黒い空は、環境の汚染や破壊よりも、むしろ繁栄を意味していました。このように普遍主義的な人新世という人間中心の批評の視点から脱却する時、技術、地域に根差した知識、帝国の歴史、環境に対する想像力について、どのような思考が浮かび上がってくるのでしょうか。地場産業や地域遺産は、人間と環境の複雑に絡み合った関係について、新たな、幅を持った思考への道を開くのでしょうか。
今回の芸術祭ではさらに、手塚治虫の『来るべき世界』を始め、日本の大衆文化、小説、映画、音楽のさまざまなシーンや事例もまた参照します。手塚の物語では、アメリカ合衆国とソビエト連邦になぞらえた国同士の緊迫した関係が原爆の開発競争──それは日本の現代化と環境の状態に深く絡んだ歴史でもあります──を招き、偶然にも「フウムーン」と呼ばれる突然変異の動物種を生み出してしまいます。フウムーンは人間を超える能力と知性を持ち、多くの動物と少数の人々を地球から避難させる作戦を考えます。自然と人間の副産物であるフウムーンが、窮地を救うためにやって来るわけです。『来るべき世界』は、今回の芸術祭のテーマとアドニスの詩に共鳴しつつ、終末と開花の間を横断します。愛知県という地域性、アドニスや手塚といった作家への参照、そして参加アーティストたちが共に示すのは、「灰と薔薇のあいまに」を掲げるこの芸術祭が、幅を持った考え方、有限なもの、そして中間にある状態を採り入れることによって、当然視されてきた位置づけやヒエラルキーを解きほぐせるということなのです。
国際芸術祭「あいち2025」芸術監督
フール・アル・カシミ
※1 Adonis, “An Introduction to the History of the Petty Kings,” A Time Between Ashes and Roses, 1970.
※2 人新世とは、人類が地球の環境を激変させた近現代を、地質年代として指す言葉。それに対し、深刻な環境破壊を招いたのは人類全体ではなく資本主義やプランテーション化を伴う植民地主義だとする立場(資本新世、プランテーション新世)や、そもそも人類を中心に据えずに、あらゆる種類の生物や非生物から精霊や神話の登場人物までが、堆肥のように共に混じりながら「地下世界に(chthonic)」生きるべきだという立場(クトゥルー新世)がある。
※3 出自や所得の多寡にかかわらず公平に安全な環境で暮らす権利を持つこと。
※4 気候変動がもたらす悪影響にまつわるフィクション。