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小企画 岸本清子 メッセンジャー

 名古屋市出身で前衛的な活動をエネルギッシュに展開した画家、岸本清子(1939〜88年)の世界に迫る小企画「岸本清子 メッセンジャー」が2019年11月1日〜12月15日、名古屋・栄の愛知県美術館で開かれている。

 生誕80年を記念し、1950年代の作品をはじめ、作品が残っていないインスタレーションの資料などを紹介。

 併せて、パフォーマンスにも光を当て、多様な活動を繰り広げた岸本の生き方を浮かび上がらせた。この記事では、展示内容を概観するとともに、展示に合わせて開かれたトーク、講演会の内容も紹介する。

岸本清子《自画像》1956年 油彩・板 個人蔵

岸本清子《自画像》1956年 油彩・板 個人蔵

 岸本は、南山中学校女子部で美術部に所属。1958年に旭丘高校美術科を卒業した。同校の先輩である岩田信市、赤瀬川原平、荒川修作らと交流し、日本画を学んだ多摩美術大学在学中に読売アンデパンダン展(第12~15回)やネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオ・ダダ)の展覧会(第2~3回)に参加し、注目された。

 名古屋時代には、豊橋出身で、日展から異端の日本画へと進んだ中村正義から学び、上京後も、三木富雄や、篠原有司男など個性的なアーティストから影響を受けたという。

 名古屋に戻った79年以降は、乳がんの治療と躁鬱病に苦しみながらも精力的に活動。88年にがんの再発で亡くなった。

 多彩な前衛美術、自作の物語による絵巻物のような大型作品、参院選出馬などの政治的な活動を含め、自らの芸術観、世界観を作品やパフォーマンスで示した。

岸本清子

岸本清子《カマキリ》1952〜54年 水彩・色鉛筆・紙 個人蔵

 展示では、中学生の頃の52〜54年に水彩と色鉛筆で描かれた《カマキリ》が、後の大作をも想起させる発想で、岸本の早熟ぶりを見せつける。旭丘高校在学中に描かれた自画像も見事である。

 続いて、焼き物工場をモチーフにした《工場》(55年)、ほとんど残されていない60年代の作品で、「ナルシスの勲章」展の出品作の1つである《羊》(65年)、水彩の《チーターと卵》(76年)、エッチング・アクアチントの《不思議の国のアリス》(82年)、ペン画の《ナルシスの地球》(60〜80年代)、水彩・コラージュの《天使》(60〜80年代)、リトグラフの《Erotical Girls》(83年)などが続く。

岸本清子

岸本清子《工場》1955年 油彩・画布 個人蔵

 会場のパネルでの説明によると、岸本の最初のパフォーマンスとして確認できるのは、1967年2月、名古屋の桜画廊で個展「Look Left!!」の最終日に行われたものである。

 顔に墨を塗り、黒タイツを履いた「悪魔の扮装」で、「ワタシは悪魔よ!」と宣言。コンプレッサーで出品作に白いラッカー塗料を吹き付け、最後には自分にも吹き付け、画廊全体を真っ白にした。この時期、岸本は自分を消すことに関心を抱いていたという。

 65年の「ナルシスの勲章」展、66年の「ナルシスの墓標」展でも、自身のナルシシズムを否定。出品作は、終了後に多摩川の河原で焼かれた。

 自己否定、自己消滅の衝動は、68年ごろから使われたアーティスト名「岸本麻里」や、石膏像やスカーフを被って顔を隠した当時のパフォーマンスにも表れているという。

 80年代には、「地獄の使者」「赤猫」などを名乗ってパフォーマンスを実行。別キャラクターを演じて、自分を苦しめる自意識から解放され、多様なバリエーションによってメッセージを送り続けた、としている。

 会場には、1980年から岸本が亡くなる88年まで、そのパフォーマンスや行動をカメラに収めた入義紋四郎の記録写真や、映像作家の出光真子による映像作品「アニムス パート2」(82年)も展示した。

 この作品では、出光の自宅で「地獄の使者」を演じてメッセージを送る岸本を撮影した後、それに全身タイツ姿の俳優のアクション映像を重ねている。

 「アニムス」は、女性の無意識の中の男性的な面を指すユング心理学の用語。また、81年の作品「ホワイトマウンテンゴリラ」(金沢21世紀美術館蔵)の下につけられていた布で、作品の字幕、歌詞カードに当たる部分も展示されている。

岸本清子

岸本清子《古事記 下図》1985年 クレヨン・色鉛筆・紙 個人蔵

 愛知県美術館主任学芸員の石崎尚さんは、企画に合わせて制作したリフレット「岸本清子の絵朗体詞墨(エロティシズム)」で、絵と体、詞の3つの要素が拮抗するような磁場をつくって、エロスを中心に絵巻・画賛、演説、ライブペインティング・パフォーマンスを展開させた岸本の世界を解説。

 例えば、体と絵の関係でいえば、岸本の個展は、展覧会初日に作品が完成せず、現地制作をしていたため、絵と絵を描く体とを同時に見る場であり、また、完成した絵をパフォーマンスの背景にすることもあったという。

 絵と詞が結びついた80年代の絵巻物風の大型絵画では、オリジナルストーリーがつけられ、イメージを楽しむだけでなく、絵とともに物語を読み解くように仕向けられている。

 石崎さんは、日本画出身の岸本が、80年代に古事記や役者絵、花の絵を多く手掛けている点から、日本画とは何かという視点からの評価の可能性にも触れている。

岸本清子
 

岸本清子《ホワイトマウンテンゴリラの唄》1981年 白コンテ・チョーク・壁紙 個人蔵

 石崎さんは、11月15日に愛知芸術文化センターであったコレクション・トーク「絵画からのはみ出し—岸本清子の“その他の活動”について」でも詳しく話した。

 石崎さんは、美術評論家の光田由里さんが、戦後日本の美術作家を整理しようとすると、欧米の動向とリンクさせ、とりわけ女性はある美術運動、グループの紅一点的な扱いを受けやすいため、あえてそうしないほうがいいのではないかと提言したことを受け、岸本の場合も、整理しないでプロフィールを更新したいと述べた。

 つまり、「愛知県出身のネオ・ダダの紅一点」というような紹介のされ方は最低で、「戦後の日本に絵解きのために降臨した歌比丘尼(うたびくに)である」と改めた。

 65年の個展「ナルシスの勲章」では、描かれた体の一部が絵の外に突き出て石膏で実体化された、トリックアートのような作品を発表。体への強い関心を示した。

 石崎さんは、こうした作品を高松次郎やグループ幻触など、当時の動向と関連づけて説明。ヨシダヨシエ、宮川淳、東野芳明、石子順造ら美術評論家が岸本を論じた言葉も紹介した。

 67年の桜画廊での、自分を消すパフォーマンスは、興奮状態で行われ、最後に白い液体まみれになって放心したようになるのは、男性の射精のメタファーであるとも指摘した。

 続いて、石崎さんが説いたのは、岸本清子と他の美術家との関連性だ。

 右から左へ、スクロールするように見る作品で、丸木俊が比丘尼のように絵解きをしていった「原爆の図」との類似性を指摘。

 被りものをして街を歩く点で、ゼロ次元のパフォーマンスとの共通点にも触れた。また、ゼロ次元では、会社の設立・経営に乗り出して生活を安定させながらアーティストとして生きるという戦略をたてた点では加藤好弘と同じ方向を向いていたという。

 特に注目すべきは、1942年生まれで現在の愛知県長久手市出身のあさいますおとの類似点だ。あさいは、62年に「底点の会」を結成。66年に不慮の事故で死亡する。

 石崎さんは、あさいの「底点」の考え方に岸本の逆ピラミッドの発想との共通点を見出すなど、2人の類似性に着目。

 子供たちへの自前の美術教育の実践、詩や散文への興味、やりたいようにやるアマチュア性の強いパフォーマンス、階級的なピラミッド構造を否定した底点への意識、エロスの重視、女性が主力となって活動する人間変革運動という諸点で、岸本とあさいは、極めて似ている点が多いという。

 人間変革、社会変革、革命への意識は、2人に共通していたが、実効性、説得力が乏しかった点でも同じだった。石崎さんは、美術教育の実践という点で、北川民次、教員だったゼロ次元メンバーなどにも言及。愛知の前衛と美術教育との関わりを強調した。

 石崎さんは、岸本の絵画以外の活動、あるいは80年代の絵画の評価について関連し、前衛の意味を、①偵察・警戒などの部隊②社会主義の指導者③実験的な芸術表現、としたとき、③の意味だけに囚われると、岸本の70年代以降の取り組みがこぼれ落ちるが、②の意味を拡張して、社会変革者としての前衛を考えると、初期から晩年までの活動を一貫したものとして捉えられるのではないかと指摘した。

 リフレットによると、岸本の70年代のメモには「芸術は目標ではない。メッセージのための手段である」との言葉もあるという。

 この後、石崎さんが、岸本に関わる映像をいくつか見せた。1983年の参院選立候補の際の政見放送では、岸本は、ポストや名誉、権力を求める上昇志向のピラミッド構造でなく、人知れず皆が支え合う、下降競争としての逆ピラミッド構造について演説した。

 バブル時代を前に、岸本がこの政見放送で唱えた、権力でなく、「愛の論理の自由志向」というのは、至極真っ当である。絵画の面白さはもちろん、リベラルな社会変革パフォーマンスの部分も貴重である。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

岸本清子
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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