ギャラリーA・C・S(名古屋) 2020年12月5〜19日
名古屋市生まれの版画家、野村博さん(1923〜2008年)の銅版画、リトグラフ展である。
戦後、新聞記者をしながら、版画家として、名古屋地域の文化の再興を図った野村さんの作品を久しぶりにまとめて見せる貴重な機会である。2021年に、愛知県美術館で、「版画家・野村博と『夕刊新東海』」が開催された。
ギャラリーA・C・Sで野村さんの展覧会が開かれるのは初めて。
野村さんが名古屋造形芸術短期大学で版画を指導したときの教え子の何人かがA・C・Sで作品を発表している縁が大きい。
名古屋のギャラリー竹内とギャラリー沙和で野村さんの個展「野村博作品展 静止矢の世界」が開催されたのが1993年。
このとき、展覧会の実行委が制作した図録は、1956〜1991年の作品を収め、政治学者(元法政大総長)の中村哲さん、美術評論家の三木多聞さんらが寄稿している。
このほかにも、何人かの美術評論家が個展の案内状などに書いた文章が再掲載され、 小倉忠夫さん(初出は1965年個展案内状) 、本間正義さん(初出は1972年個展案内状)、穴沢一夫さん(初出は1976年個展案内状)、大島辰雄さん(初出は1982年個展案内状)らの文章を収録する。
今回は、1959〜98年の作品59点を展示。ほかに約50点を見られるようにテーブルに置いている。また、別に、1955〜84年の小品60点ほども見ることができる。
創作への熱い思いが伝わる展示である。柔らかい表情の作品と緊張感のみなぎる硬質な作品、具象と抽象、明確な輪郭と不定形、大胆さと繊細さ、モノクローム、カラー・・・。
作品の幅がとても広く、版の特性を吟味しながら、技法を究め、尽きせぬ創作欲と実験精神によって多様な表現の試行錯誤に挑んでいたことが確認できる。
亡くなる直前まで ドローイングなどの制作を続けていたという。
1947年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科卒業。1950年代半ばから、作品を発表した。
日本版画協会展、東京国際版画ビエンナーレ展や、リュブリアナ国際版画ビエンナーレなどに出品。
画廊での個展のほか、彫刻家の野水信さん(1914〜1984年)、洋画家の真島建三さん(画家・真島直子さんの父)、前衛写真家で青柳総本家の四代目社長だった後藤敬一郎さん(1918〜2004年)らの朱泉会など、グループ展でも作品を発表した。
朱泉会の関連記事は、「なごや寺町アートプロジェクト『しかしかしか』『羊かん彫刻⁉︎』」。
ギャラリー及び、野村さんの作品を管理している関係者によると、名古屋では、1947年から、戦後の新興紙「夕刊新東海」(新東海新聞社)の記者だった。
その後、横浜市に転居。1961年まで東京で別の新聞社の記者として働き、1960~70年代を中心に精力的に版画を制作した。
また、一時、日本美術家連盟の版画工房室長を務め、1969年4月から1982年3月までは、名古屋造形芸術短期大学の非常勤講師(洋画コース)として、後進を育成した。
当初は、プレハブ小屋から始まり、版画工房を設立。コースに縛られず学生と関わった。
その後、部屋も確保されて1975年ごろから、洋画コースの管轄で版画コース(10人ほど)の指導に当たった。
1993年に出された図録では、三木多聞さんをはじめ、多くの美術評論家が、野村さんが1960年代半ばに発表した代表作の1つ、『ゼノンの矢』シリーズに言及している。
ゼノンの矢は、紀元前5世紀のギリシャの哲学者ゼノンの逆説「飛矢静止論」からの引用である。
飛んでいる矢の動きを一瞬ごとにとらえれば、いつの時点でも瞬間、静止している、というものだ。
野村さんは、点で綴った持続する時間の軌跡上に自身の「生」を置き、その流れと共に変遷してゆく内的世界の一瞬間を捉え、画面に固定しようとした——。
野村さんの作品が、なぜこれほど多様で、豊かであるのか、その理由が分かる言葉である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)